自分のためのお通夜。




Pocket

昨日緊急の回覧板が届き、町内会長さんが亡くなったことを知った。
以前に2年間だけ町内会で班長を務めた際に、お世話になったご恩もあったので
お通夜に参列させてもらうことにした。午後7時から場所は近所の葬儀場。

向かう途中で喪服を着たたくさんのお年寄りの方々を見かけた。きっと目的は同じだろう。
会場は思っていた以上に広く、まるでどこかのコンサート会場のように人で溢れ、
黒の服の人たちでごったがえしていた。受付を済ませて中に入ると、
椅子が足りないようで会場の方が奥からせっせと椅子を運び出していた。

僕は何気なく椅子の数を計算。およそ500席が満席だった。
お経がはじまるとすぐにお焼香がはじまった。これだけの人がいると静まり返ったりはしない。
お経と一緒に人が立ち上がるガサガサ、ざわざわという音が聞こえ続けていた。

町内会長さんは、相当に人望があった方なのだと改めて感じた。
思い返せば、班長の仕事で“年末の火の用心”呼びかけに参加した際、はじめての僕を気遣ってか、
いろいろ話しかけてくれたことや打ち上げでビールを持ってきてくれたことなど良くしてもらった。
きっと皆さんに対してそういう人だったのだろう。参列者の数を見てそんなことを思い出した。

昔、お葬式のときにその人の人生が垣間見えるということを聞き「それだけで、判断はできないでしょ」と
その意見には否定的だったけど、人だかりを見ていると、まぁそうとも言えるかなと、
またひとつ自分の中での否定意見が肯定にかわった。

あと僕はこうも思う。

お葬式やお通夜にいくことは故人のためではなく、自分のためなのだと。
僕は良くしてもらった町会長さんに結局ご恩を返さずまま今日に至る。

「その節は、大変お世話になりました。ゆっくり休んでください。班長が終わり、それっきりですいません」と、
少しでも自分の気持ちを軽くするためにお通夜に僕は行ったのだと思う。